昭和48年01月03日 朝の御理解
御理解 第81節
「氏子十里の坂を九里半登っても、安心してはならぬぞ。十里を登りきって向こうへおりたら、それで安心じゃ。気を緩めると、すぐに後へもどるぞ。」
八十一節から、今日私は信心させて頂く者の一番大事な心がけと言ったような事を聞いて頂きたいと思う。信心させて頂く者の一番大切な、いわゆる心がけ心得です。お互い信心をさせて頂く。様々な問題を通してその問題を、又は難儀をおかげにして参ります。本当にようも金光様の御信心を頂いて居ったものだ、もし金光様の御信心を頂いてなかったら、どう言うことに成っておったであろうか、と肌に寒いものを感じる様なおかげを頂きます。本当に信心頂いておったおかげでと言うおかげを頂く。
私はそう言うおかげを頂くと言うところが、九里半登ってもと言う所だと今日は。聞いて頂きたい。十里を登り切って向こうへ降りたら安心じゃと言う事はどう言う事だろうか。昨日吉井の杉さんがあのように毎日お参りに成りますが、元旦祭の日には、皆でおかげを頂かしてもろうたけれども、親先生にご挨拶も出来なかったからと、言って昨日改めて昨年一年のお礼のお届けがありました。
本当に今私が申しましたように、もし私が金光様の御信心を頂いて居なかったら昨年という年は、どう言う事になっただろうか、と思われるような年で有ったというのです。まあ、それこそ浮羽きっての財閥ですからねえ。お換えやら財産は、どれだけ有るか分からんという位に有るお家なのですけれども、世の中にはお金だけでは、どうにも出来ない問題が、たくさん有ると言うことです。
そして正しく御神夢を、頂いたと言うてお届けをされるのです。あちらの息子さんがまあだ小さいおんぶする位にその方をおんぶして、山登りをしておる所がもうそれこそ断崖絶壁と、言った様なこんな坂ではなくてもう、真っ直ぐ立った様な山を登らなければならない。そこに秋永先生、日田の綾部さんが居て、その秋永先生に誘導して貰い、綾部さんに後押しして貰い、と言う様な事でその山を山を登り切ったと言うのです。只不思議な事は、上から大きなロープが下がって来た。
ですからそのロープにしがみついて一生懸命登っていくと、手をかける所が有る。足をかける所が有る。まあどうしてこういう山が登れるだろうかと思いながらも、秋永先生の励まし、綾部さんの後押しと、言った様な事で、おかげで登りきりました。登り切った所がそこは、もう平地で有ります。所謂沢山の田や畑が有る平地。そこで子供さんが、おしっこに行くと言われるから。させて頂いた。
ようもこんな山に登ったもんだ、やれやれと思いながら。降ろさせて頂いた。そして見ますと何と、先生その息子が、所謂おんぶしておったはずの息子が、現在のように、大きくなっておるというお夢でございました。もう私はこの夢から、おぼろげながら感じるのですけれど、本当昨年という一年は、御信心友達の方達の応援があったり、同時にこのロープの綱と言う事は、信心と言う事で有ろうが。
生神金光大神様を唱えての一年間で有って、おかげを頂いたと言う事だと思うのですけれども、その子供をおんぶしておったり、上で降ろしたら、その子供が大人になっていたり、と言う様な事は、大体どう意味の事で有りましょうか。とこう言われる。お互いがそれぞれに難儀というものを、背負っている。あれだけ財産家で有るから、もう何も困ったことも難儀なこともないように見える。
いや困ったこと、難儀なことが有ったに致しましても、それこそ金に、ものを言わせる、地獄の沙汰も金次第と言うような諺も有ります様に、この世の事ですから、金次第でどうにも出来そうですけれども、実際は、出来ない。地獄の沙汰は、よし金次第で出来たに致しましてもです、極楽の沙汰は、金次第じゃないと言う事。例えば地獄の沙汰、難儀な問題、この世に有るときは、金さえ有れば解決するとこう、こう思うのですけれど、極楽の沙汰はそんな訳には行かない。
それは、億万の金を積んだところで、極楽行きは、出来ない。地獄の沙汰だけは、金で解決するかもしれないが。信心と云うのはもうどこまでも、金やら物やら力で解決の出来ない所です。おかげにしていくのが、信心で有ってみれば、成る程金やら物やらは、頼りにならない。そう言う中に、信心を、頂いておったと、あちらの御主人が、椛目時代総代までもなさった方です。
それで色々な問題、話の中にございましたけれども、主人が一緒に金融会社を、その片一方を担がれていた後藤さんと云うて、此処へもちょっとばかり御参りされた事が、有りますが、先日から亡くなられた。そう言うお届けが有っていました。此処に、昨日もその話して、「もう、先生、それが大変な事でございました。もう二日に渡って大々的に新聞に載りましたからね。先生も御承知でしょうけれども。」と言うことでしたけれども、実は私、新聞も、そこの所を、見ていなかったんです。
先日からそこの家が火事に成ろうとして、それを消される為に体を火傷されたり何かで、永く寝ておられました。段々今頃は良いという噂は、聞いて降りましたけれども亡くなられた。そして火葬場に行かれてですね。その火葬場の寸前にですね。警察から問題が有るからと云うてその死体を、また逆戻りしたそうです。そして解剖された所が死因が久留米医大で、診断がおりておったのとは違う事で有ったと云うので。
もう本当に大変な難儀な上に、もうそれこそ目も当てられない言うなら、泣き面に蜂と言う様な状態であった。それが沢山保険金にかたってあったそうです。壱億何千万からの借金、それに九千万ですかの、だから保険会社からの調べが、警察に依頼された訳でしょうねぇ。まあ後の話を聞きますと、もうそれこそ亡くなられた御霊様を切り刻みするような事ですから、皆さんも新聞でご承知でしょうけれども。私ももし信心が無かったら、どう言う事になっとつたか分からないと言う様な事がある。
本当に昨年という一年は大変なおかげの年であったと、本当におかげ頂なさったですねと云うて、本当にまぁ私もまぁ実感と、お取り次ぎさせて頂いてそれを思いましたんですけれどもです、今日の御理解を頂いてそう言うおかげを、頂いたと言う事はそんならまだ九里半しか登っていないと言う事を、杉さんの次のお届けを聞き乍ら感じたんです。それはもう本当に家庭の上に、人間関係の上に様々な事にもう本当に、それは大変なそれは、お金で解決も出来ましょうけれども。
それは信心が無かったらどう言う事に成っておったか、分からないとこういう解決はついても。神様のおかげで一つ一つがおかげに成ったと云うところからです。何ともいえん有り難い物になってきた訳ですけれども。そこでです。そのお届けの後にです、最近合楽で五つの願い、と言われるのも、本気で願わせて頂きますますけれども、本気で願っておる自分を振り返って見ると、先日の御理解じゃないですけれども一、二、三の三つの所だけは、もう切実に願っておる。
どうぞ体の丈夫、所謂健康のおかげを頂きますように、その為の修行もいといません。家庭の円満のおかげ、家庭に不和の無きが元と仰せられるから、家庭に不和のなきを一生懸命願わせて貰う。これは特に願わせて貰わにゃお金が有れば有るほど、物が有れば有るほど、金やら物のために親子でも、兄弟でも血で血をあらうことに成りかねない世の中ですから、やっぱその事は特に思われるでしょう。
息子さん達も何人もおりますし、同時にそんなら、愈々是だけの財産が、愈々子供たちに伝わって、孫達に伝わって、愈々繁盛してゆくことの為には、愈々切実に祈らなければおられない訳です。そん為には有るからと云うて、無駄使いどもせんという修行も愈家庭円満のおかげを頂くには、金輪際人を責めないと言う生き方も、段々本気で身につけさせて頂いて、おかげを頂いておりますけれども、もうそれは本当に切実なのですから、この三つは、ところが後の二つの願いという、真実の御用が出来ますように。
神願成就のおかげの頂けますその御用にお使い頂く様にと言う、後の二つの願いという物が実感が乏しい。口ではいうておるけれども、心の中にその実感がない。そうであったら真の信心にならんと頂きましたが、これはどうしたことだろうかと、自分で始めて信心の悩みを感じ出しなさった。昨日は信心の悩み、これが段々悲しいまでに、そこの所が出来ないことを思わせて頂けるように成ったら、信心も私は大丈夫だと思う。けれどもそれが悩みにも成らなければ気にも成らない。
自分の祈りの内容と言うものが、五つの願いというても三つの所は、切実に自分又は、自分一家に拘り合いの有る事ですし、願わなければおられない事ですから願っておる。その為の修行はいとわんという修行もしよるけれどもです、所謂後の二つの願いという物に実感が無いと云う所に、自分の信心不足を感じておる。今日は私はそこの所にこの三つの願いをさせて貰う。それがおかげに成って行くと言う事。それがおかげを受けたと言う事。例えばその三つのねがいは、健康の上にもおかげを受けております。
家庭もおかげで円満に、愈々この長じて参りますと、昨年よりも今年と言う様に、繁昌致しておりますけれども、後の二つの願いがもし実感的に出来なかったとするならばそれは、真の信心にはならない、結局は我情我欲の願いと言う事に成ってしまうのだ、その事を願う事によって修行もする。だからおかげは受けたにしましても、それは氏子十里乃道を九里半登っても、と言うところになるのです。
先日からの研修会の時に日田の綾部さんが発表しておられたように、3年間の信心でまあようもあそこ迄信心が進められたと、思うんです。又本当にあのお話を聞かせて頂いてです、成る程、おかげを受けるということは、ああいうところが大事にされなければならないなあ、あそこで気おを抜いちゃいけないなあと、色々話を聞きながら感じるのです。その中に例えば、今の五つの願いの三つの、云うなら人間関係の問題の、又は経済の問題又は健康の問題、でも綾部さんの場合は入っている訳なんです。
例えばご主人が亡くなったと言うような、これはまあ健康のことでしょう。そのおかげで黙って治めると言う事の、素晴らしさを体験したとこう育っている。 子供さん達のこれはもう本当に呆然と成る程しの問題であった。ご自身がそう云うておられる。所謂家庭円満と言う事。そう言う難儀な中からもう見事にです、それこそ乱れた髪をすき櫛で、すき上げたようにスキッとおかげを頂かれた。しかもおかげを受けるところ迄、受けぬかれた。経済の問題でも、沢山な事の証人に立たれた。
その問題で、昨日も、杉さんが仰っておられたが、あの話を聞かせて頂いて、日田のお友達から聞きましたけれども、本当に綾部さんの所は、「もうしまえるげなね。」と云うてその友達が 「いや、そげな事はなかでっしょう。あがしこ一生懸命信心しよんなさるけん。」と言うておりましたが、そう言う噂が飛ぶ程しであった。それも事の見事に、先日発表しておられますような、おかげになっとる。所謂この三つがどれもこれも、おかげになってる訳なんです。見事に。
それにはそんならあのような信心、本当に呆然とするような問題、人間関係の問題であっても、只一心に親先生のお言葉を、あのときにお取り次ぎを頂いたら、ある御理解を頂いてその御理解に縋って、云うならロープにすがって山を登るようなものであった。経済の問題なんかは、もう兎に角分からない。けれどもとにかく親先生任せでおかげを頂いてもう、それは大変見事にならせてもろうた。健康のことも不思議におかげで、健康のおかげを取り戻した。
戻しただけではなくて、云うなら黙って治める事の素晴らしさを、実感したと、こう云われる。云うなら事の見事に、おかげを頂き抜かれたから、いかにも十里の坂を登られ切ったようにあるけれども、そう言うおかげを頂いたと云うのはです、まだ九里半しか登っていないんです。三つの願い、いわゆる杉さんの昨日の後の悩みじゃないですけれどもあれほど、五つの願い五つの願いと云われる前の三つの願いは、土下な修行してでも頂こうと云う熱意がありますけれども。
後の二つの願いの所に実感が無い事を思うて、自分の信心が到らない。自分の信心がまだまだ真の信心では無いと言う事に、です、少し悩みを感じて来たと云うのです。「心に迷いの闇が迫ってくると悩みは果てなし。乱れる心に願うは誰が事、身は恋しく焦れども涙溢れて無明はつくせん。」と言う昨日のご理解。そう言う信心を真の信心を分からして貰おう。けれども分からない。これは一つ悲しさなのです。
それが悲しさまでにも、段々信心の程度というものが進んで参りますとです、そこの所をおかげ頂いておりますと、いつの間にかその願いが三つの願いよりももっともっと切実にです、それこそお役に立ちたいお役に立ちたいの一念というものがつのって来る来るように成ったとき始めて、私は十里の坂を登り切ったと言う事になるのじゃなかろうかと思う。それ程しのそんなら綾部さんにしろです、杉さんにしろ。
それ程しのおかげを頂き乍らです、どれ程しの信心がと云う所を、後の五つの願いの二つの所にかけておられると云う事。ですからそう言う例えば信心の云うならば悩み、それはもう本当に美しい悩み、尊い悩みに悩めれるようになったら、信心はもう安心だと思うです。どうでしょうか。皆さんも五つの願いの三つの所は、本当に切実に願われるけれども、後の二つの所の願いというものガです、本当にお役に立ちたいお役に立ちたいの 一念が燃えてきて居るでしょうか。
確かに現実的なその三つの願いと言うものは、それはどげな修行してからでも、ここば頂く為には、一つ私が頑張らにゃと言う気が起こるけれども、二つの願いのためには、ひと修行させて貰わにやとか。又は悲しさを感じる程しの信心が信心が行きよるだろうか。いかにその私共の健康であると云う事も、家庭円満であると云う事も、家繁昌子孫繁昌と言うことであっても。
それは成る程神の願いで有るわけですけれども、そんなら私共の願いも又、神様の云うならば繁昌、神様がままになられる事のために、神様は氏子がままになる事に切実であるならば、子供も又親がおかげを頂くことに切実になった時に初めて本当の交流と云う事に成るのじゃないでしょうか。二、三日前テレビを見せて頂いておりましたら、アフリカの自然動物園の記録写真を見せて貰いました。山火事に成る。それでもう沢山な動物達が逃げまどうとる。なかに像の一群が逃げております。
ところが小さい、まあだ生まれたばっかりのようやく、歩き習ろうたと云う位な、子象を連れた母象がですね、皆に、連れをはぐれてしまうところが出ておりました。象というのは日に何トンとと言う水を飲まなければ生きて行けない動物だそうですね。ですから、砂漠の水気が出ると言うようなところで、そこで水が出ないと、自分で井戸を掘るんです。鼻でそして水が涌いてくるまで掘ってですね
。飲んだりする所も出ておりましたけれども。とうとう皆んなとはぐれてしまって、所謂水を求めて親子で砂漠をさまようておる。もうとうとうきつくなって、自分でも立ち上がりきらんごと親象が成ります。自分の胃袋の中に少しばかり貯まっておる、自分の胃袋の中に少しばかり貯まっておる。自分の胃袋の中に少しばかり貯まっておる、自分の胃袋の水をです、出して、子供の象に与えるという所がありました。
本当にもう象は、大変利口な動物だそうですがね、子供のために自分だけ逃げりゃ逃げられるんだけれども、子供のためによう逃げもせずに、連れからはぐれてしまう。そしてもう愈々水を探し求めて無い時には、もう自分もへとへとになっておるのにも拘わらず、自分の胃袋の中から、水を出して子供の象に飲ませるという、もう親心にほっと致します。それでも倒れた親象の乳を飲もうと思うて、してますともう動かなくなった、母象を出すね、そのまま子象はそこを去って行く所の記録映画なんです。
親の思いと子の思いと云う事を、思います時にですね、神さまの本当に千万むりょうの思い、氏子にかけて下さる願い。ですから信心が出来たとか、信心が分かると云う事は、その親の思いが分かって、その親の思いに添うと云う事が、信心で有り信心が分かったと云うので有り、信心が出来たと云う事なのですよ。金光様の御信心とは。だからふつうの神々様とは違う。一年に一辺元旦に三社参りしときゃもう一年間な大丈夫と言った様なのとは違うのです。
何処までも親の思いを分からせてもろうて、その親の思いに添うていくという事なんです。親の思いは氏子信心しておかげを受けてくれよ。繁盛もして呉れよ。健康でも有って呉れよ。家庭円満でも有って呉れよ。と言うのが親の願いなんです。ですからその親の願いで有る親の心を分からして貰う時にです、そんなら親の子供がままになると云うだけではなくて、親自体もままに成られる事の為に、子供が成らせてもらう。
分からせて貰うと言う所をです、子に掛り親に係りあいよかけよで立ち行く、と言う事に成るのです。金光さまの御信心は。神さまと氏子とがです、云うなら神ひと共栄の道が開けて来ると云う事が、御道の信心なんです。神さまと人間が一緒に栄えて行こうと言う。ですから私共はどうも我情我欲が強いものですから、そんなら三つの願いには飛びつくような思いですがりもする。その為には修行もする打炉憂けれども、後の二つの神の願いが、成就する事の為には、祈りと言うものが非常に薄いので有る。
この三つの願いの為にはそんなら、色々修行が有りますから、そんなら後の二つのために、分からせて頂く為にも、本気で修行させてもらおうと言うのが私は、朝参り的信心と云う事になるのじゃないかとこう思う。神さまの心を分からして下さい。神さまの心に添わして下さい。しかもそれが出来ないことに悲しさを感じる程しの、親の思いを思うたら、自分が親を思う思いと云うのは、このように親象と子象じゃないけれども、違う事実を自分の心の中に発見した時にです。
これでは相済まん事だとそこから、求めることが私は求道だと思う。そこの所を分からして、頂こうと願う。それでも分からない。そこに場合にはジレンマも起こってくるけれども、その悩みを尊しとさして貰える信心。それこそれこそ涙溢れて尽くせん。という程しの信心が高められてくる。杉さんの場合なんかそこんところに、少し気付いておられる。それは昨年一年の余りもの、信心が無かったらどうなっただろうか、と思う程しのおかげを頂いて来ておればおるほどにそれを思う。
綾部さんのそんなら、今頃からのおかげ話を聞いても三年間で、ようもそこ迄分かってようも、そこまでのおかげを受けられたなと思うのですけれども、果たして後の二つの願いというものが、どの様な事になっておるのであろうか、祈りの言葉の中には、祈っておるけれども、その三つの願いとの、云うならバランスと言うものがとれておるだろうか。本当云うたら後の二つの願いの方が、比重は重くなることが信心なんです。
そこに神さまの願いに答えるというか、そう言うおかげを頂きたい頂きたいという一念が、段々燃えてくる程しのおかげを頂いた時に、私は九里半じゃなくて十里を登り切ってしかも向こうへ、降りた時の姿では無かろうかという風に思うのです。これならもう安心でしょうが、そんなら神様ももう安心して下さる喜んで下さる。神さまのご安心、神さまのお喜び頂ける所まで、私どもの信心を高めて行かねばならんと思うですね。
どうぞ。